Bury St. Edmunds

Abbey Garden, Bury St. Edmunds (2000年7月22日撮影)

Suffolk州の街、Bury St. Edmundsは、その街の名前を直訳すると、「聖エドムンドの墓」というちょっと変わった名前の街です。

イギリスは、どこに行っても歴史のある街や村、美しい街や村であふれていますが、この両方を持ち合わせている街や村は、それほど多いわけではありません。 このBury St. Edmunudsは、数少ないそんな街のひとつです。 全英で行われている花の街コンテストでも何度か表彰を受けています。

この街の東側の約半分は、Bury St. Edmunds Abbeyという寺院の跡地です。 左下の写真はこのAbbeyの跡地とその周りのAbbey Garden(上の写真)への入り口であるAbbey Gateです。

 

Abbey Gate, Bury St. Edmunds (2000年7月22日撮影)

このAbbey Gateの前は、Angel Hillと呼ばれるマーケット跡で、現在はInformation Centerとなっている建物や、Angel Hotelという立派なホテルが建っています。 その一角には、Angel Cornerというアン女王の家(現在は市庁舎)もあります。 

Bury St. Edmundsの街のモットーは、「王の墓、法のゆりかご」(Sacrarium Regis, Cunnabula Legis)といわれています。

この「王の墓」というのは、869年に、イギリスの東の地方の王であったSt. Edmundsがバイキングに攻め込まれ殺された場所であるためです。 この街の名前は、この事から付けられたものです。 

 

Abbey Gateを抜け、Abbey Gardenの中にはいると、Cathedral, Norman Tower, St. Mary's Churchが建ち並んでいます。 

その一番奥に寺院の跡が残っています。

1020年、St. Edmundsの死後、100年以上をかけ、このベネディクト寺院が彼の墓として完成しました。

1539年にイギリス全土で施行された僧院解散のために、現在は、既に下の写真のように廃墟となっています。 

Bury St. Edmunds (2000年7月22日撮影)

 

Bury St. Edmunds (2000年7月22日撮影)

イギリスでは、1215年、マグナカルタが認められたことにより、国王中心の専制政治から議会の代表制が認められました。 

左の写真の、一番左の柱の根元に白い四角い石版が見えますが、この石板の記述によると、 その前年の1214年11月20日、この石板のところにあった祭壇付近において、Cardinal Langtonと貴族たちが、貴族の既得権と議会の代表制をJohn王に認めさせるべく、怒りの声を上げた場所ということです。

この街のもうひとつのモットーである、「法のゆりかご」というものは、この伝えから来ています。

窗体顶端

窗体底端

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